クラブヒストリー

  • 昭和4年の堂島界隈
  • 鈴木初代理事長
  • 白雲ビル外観
  • 旧会館外観
  • ライシャワー大使
  • 婦人部活動風景
  • 東洋の魔女祝勝会
  • 30周年祝賀会

クラブ設立の経緯

終戦直後、日本産業界はGHQの指令で、それまでの財閥は解体され、 同時に各方面の有力者はパージと言う、大嵐が吹きまくり、関西財界の有力な指導者たちも、 このGHQの措置によって一斉に居なくなってしまいました。この後を引き継ぐことになった若い経営者たちは、 お互いに面識もあまり無く、協力して関西経済界の復興を行って行けるのかどうかは、いささか心もとない状況でした。 この状態を深く憂いた旭化成の堀朋近氏が、若い経営者達が、お互いに十分知り合い、 仲良くやっていけるような組織をつくり、同時にその人達が、 しばしば会合できるようなクラブを設けることが、目下の急務であると、若手経営者に働きかけ、 当時の住友銀行頭取であった鈴木剛氏にクラブ設立の発起人を要請、 そして事務局長として関西の著名な文化人や経済人と幅広い親交のあった、 哲学者・小島威彦氏を招請して具体化する作業が進められました。 当時の大阪は戦災により焼け野原となり、僅かに残った建物もGHQに接収され、 若い経済人たちが集まる場所などは皆無と言った状況でしたが、当時、大阪市北区堂島上3丁目に堀朋近氏の邸があり、 堀氏がこの地を提供して、ここにクラブが入る建物を建設することになりました。 建物の設計は元日本建築家協会会長の坂倉準三氏に依頼、 旭化成の「白雲ビル」として建設を行い、この2階全体をクラブ会館として使用することになりました。 又、料理長として、当時、関西で評判の料理人であった、夙川パインクレスト料理長の井上幸作氏を招聘するなど、 着々と準備が進められました。そして、昭和23年2月5日、設立総会が開催され、「クラブ関西」が誕生しました。 設立当初の会員企業数は40社で初代理事長には鈴木剛氏が就任しました。 その後、この白雲ビルには高松宮殿下をはじめ、吉田茂首相など、多数の著名人を迎え、 名実共に関西を代表するクラブとなって行きました。

現在地への移転

クラブ創設の2年後には婦人部を設置するなど、クラブの発展に応じて、早くも会館が手狭となり、それまでの間借りから、自前の会館建設の気運が高まりました。そして、四ツ橋筋を東に越えた堂島浜1丁目の堂島川北岸が、かつての「堂島米相場」が立った中心地で、関西経済人にとっては意義深い場所であると言ことになりましたが、当時、この場所には進駐軍の刑務所があり。困難な折衝を重ねた結果、現在地の割譲を進駐軍より受けることができ、再び坂倉準三氏の設計で、昭和27年5月に晴れて自前の会館が竣工しました。その後、昭和32年にはさらに増築を行っています。

新館の建設

そして歳月は流れ、会館建設から30年余が経過した50年代末、建物にも老朽化が目立つようになり、大規模な改修が計画されましたが、検討の結果、会館の全面建替えが決定されました。そして、設計・日建設計、施工・大林組で約1年の建設期間を経て、昭和59年10月に現在の新会館が竣工しました。 その後、平成10年には創立50周年、19年には60周年を迎えエレベータの新設工事や玄関ドアの自動化などの設備の充実を図り、今日にいたっています。

年表